うちの娘に、誰かいい人紹介してくれないかしら?
改めまして、私は、千代田区丸の内の一般社団法人 良家のご縁の会協会の村田弘子と申します。
しあわせ相談倶楽部という結婚相談所を運営し、今年で10年目になります。開業は、義父が急逝して5年目のことでした。
ある日、事務所のお得意さんのところに用で伺うと、帰り際に奥さんに呼び止められ
「ねえ、村田さん。うちの娘に誰かいい人いないかしら?」と言われました。
きょとんとした私に、奥さんはこう続けました。
「私たち夫婦は、お宅の亡くなった善次郎先生の紹介で結婚したのよ。うちは、女の子ばかり3人でしょ。次女が会社は継ぐけれども、私たちが亡くなったあと、あの子と会社はどうなるのかと、心配で夜も眠れないわ。」
「お婿さんでなくて構わない。定年後に経理を見てくれる程度でいいのよ。ねえ、村田さん、頼むわ。誰かいい人はいないかしら?」
奥さんは、困っておられました。
お得意さん同士を結婚させていた税理士の父
私は、その時に初めて、義父が税理士傍ら、よそ様の仲人をしていたことを思い出しました。披露宴か葬儀かのどちらかに呼ばれることが多く、家には引き出物、香典返しが交互に山積みになっていて、会計事務所とは、冠婚葬祭の嵐なんだなと荷物の山を眺めて、ため息をつきました。
昭和4、50年代の引き出物は、鍋だとか、重たい食器とか、かさばるものばかりでしたから、物置部屋にはスチールの棚が物流倉庫のように並び、毛布や肌掛布団が、通路をふさいて投げ置かれていました。最後にはとうとうドアもあかなくなる始末で、質素に育った私は、「脚の踏み場もない」という表現が、実在することを知りました。
義父は、1日に慶事と不祝儀のダブルヘッダーの日も珍しくなく、袱紗の赤と黒の敷板をひっくり変えし忘れたり、あるときは、葬式に白ネクタイで参じてしまったと、言っておりました。
社団法人良家のご縁の会協会の前に設立しました、私の結婚相談所しあわせ相談倶楽部は、父の仲人役を、嫁が事業として継ぐかたちで誕生しました。会計事務所が主に経営者や士業、医師、地主さんの家族の縁談を紹介し、その家が代々繁栄していかれることをミッションに、活動を開始しました。
しかしながら、義父と私の関係は、継がせてもらうほどの仲が良いわけではありませんでした。むしろ、若い嫁にとっての義父は、抵抗できない「心理的天敵」に近い状態でありました。義父のパワーは、嫁にとってそのくらい強い、絶対的なものだったのです。
旅行から帰ってくると、姑に呼ばれて宣告が下る
まるで社葬のような、営業色の強い披露宴が終わり、1週間のヨーロッパ新婚旅行から帰るともう師走。クリスマスムードの街には、もう小雪がちらつき始めました。厚手のオーバーを羽織っても寒いある日、急に姑に呼ばれた私は、応接間に通され、こんな話をされました。
「弘子さん、わかるわね、うちは、男の子を早く産んでくれないといけないの。」
「どうしても、子どもは3人以上、男の子を必ず産んで、その子をまた、会計士にしてもらわないと困ります。それだけは主人がどうしてもって言うの。だから、弘子さん、どうしても、男の子を産んで頂戴ね。わかるわね?」
母は応接間の暖炉を背に、いつもより背筋を伸ばし、なぜか私の目を見ることなく、そこまで一気に話し終わると、ぎょろっと大きな目で私を見つめました。
「きょう、慶応病院で男女産み分けの注射があるってテレビでやってたわ、それを受けてきてくれないかしら。お金なら出しますから・・」
私は、落石を頭に受けたようなショックで、途中から、母の声がよく聞こえなくなりました。
子どもは3人以上。男の子を必ず産んで、その子を会計士にするように
「どうしても男の子を跡継ぎに」、この言葉は、それから出産まで、ずっと私の頭のなかでこだまし続けました。妊娠中も胎児の性別が気になり、つい、考えすぎてしまいました。
努力で何ともならないことを要求される不条理に、「なんでここまで。雅子さまでもあるまいに」と思いました。
村田家は、仲の良い一族ですが、嫁だけは別なんだなというのが、たまらなく孤独に思えました。この手の親の要求というものは、真に受けないに限ると今はわかりますが、当時はまだ、二十四。私も未熟で、蒼かったのです。言葉通りにしか、受け止められませんでした。私は卑屈になり、嫁には人権がないのか、とまで思うようになりました。
ストレスか、新婚家庭のふかふかなベージュのカーペットには、黒い髪がたくさん落ちました。また毛が落ちてるぞ、と夫に言われては、落ちた毛を拾いました。
さすがに、自分になにが起きているのかを、24歳の自分はようやく静観し始めました。
「ちょっとまずかったかな・・・」
しかし、立派な結婚式をして、喜んでくれた里の両親を思うと、実家に帰る気にはなれません。産んでも産んでも女の子だったら私はどうなるのかとの先の不安をかかえつつも、できるところまで頑張るかと諦めに似た気持ちでした。
第一子男児出産。ほっと安心と思いきや
世の中に神様はいるもので、運よく生まれた第一子は、有難くも男の子でした。村田の家は総出で大喜び。これで少しは嫁も大きな顔ができるのではと一瞬、思ったのですが、そうは問屋が卸しませんでした。むしろ、本当に大変な思いは、ここからが始まりでした。
三代目が誕生ということで、姑は、自分の父、娘、姉、そしてすべての人々を日替わりでうちに呼んできました。日曜日、ようやく水入らずで休めるかと思うと、朝の8時に電話が鳴って、子どもを連れて遊びに来いと義父からお呼びがかかりました。私たち2代目夫婦は、義父母の言われた通り動く、召使、村田家のコマのひとつにすぎませんでした。
「バカ殿様はこうしてできる」とあきれるくらい、息子は甘やかされ、なんでも与えられて育ちました。やがて、1歳になると、姑は、地元の国立幼稚園を受験するように言いだし、私はおむつの取れない息子を抱いて、幼児塾に通うことになりました。23年にわたる、幼稚園受験から国家試験合格までの、長い受験ママ生活のスタートでした。
神様扱いに、ちやほやされる、輝く我が子。対照的に、家族の中に居場所のない私。自分の思うようには育てるのでなく、まずその家の後継ぎを生み育てる、産み育てる使命の私。3代目の母である私。
村田家の絶対王政に、どこかついていけない感覚を持ち始めていました。
なぜ嫁の気持ちは考えてもらえないのだろう。なぜお父さんの言うことはみんな黙って聞いて、私の味方は誰もいないのだろう。それが、孤独でした。